(続)
メティス
「記憶がないんだ。気が付いた時には、血塗れの母さんの横に立っていたんだ。
俺を心底憎んでいるんだろう。最愛の人を傷つけられて…」
「御前は愛されていないのか」
「母さんは特別なんだ。俺が長く会話してるだけで嫉妬するような人だから。
あの時、俺も殺されかけて、必死の思いで逃げ延びたんだ。
もう城には戻れない。このまま逃げるしか…」
ぽつぽつと雨が降って来た。
ふと空を見上げると雷雲とともに轟くように声が聞こえて来た。
「天を討つ者よ。そなた達のみではこの混沌に抗う事など出来ない」
「なにが起こってるんだ…」
ゼウスはメティスと瞳を合わせた。
「私は天空を統べるもの。そなたに忠告してやろう」
「……」
「天は権力を絶対的なものとする為に、己の血を引く神族達を排除しようとしている。
今、その者達は闇に閉じ込められている。後はそなたのみだ。
天に勝ちたければその者達を
解放し、
更に地獄に眠る単眼巨人と百腕巨人の助けを得る事だ。
そうすれば勝利を手に出来よう」
「血を引くもの? 兄弟姉妹と言う事か…」
メティスは不審に思った。それはゼウスも同様に。
「何故兄達まで! 母さんの事を恨んで俺を襲ったんじゃないのか!」
「それは行って自らが確かめるがいい」
「どう言う事だよ!」
ゼウスが声を荒げると雨が強くなり、激しく打ち付けて来た。
答えはなく、雨音が全ての音をかき消した。
今何が起こっているのか。自分一人が姿を消せばいいと思っていたが、
失踪した為に事態が大きくなってしまったのか。
そこまで父は狂ってしまったのだろうか。
沈黙し続けるゼウスの手を引き、メティスは歩き始めた。
「取り敢えず雨を凌げる場所を探そう」
二人は走り視界の悪い中、時間をかけて見つけた洞窟で身を潜めた。
ずぶ濡れになった二人は、小さく火を焚いて寒さを凌ぐ。
「で、これからどうする。このまま逃げ続けるか。他を考えるか」
「父さんは本気だ。争い事は嫌いな筈なのに、俺やメティスに刺客を送り込むだけじゃなくて、
兄達にまで手を掛けるなんて、正気の沙汰じゃないよ」
「クロノスは反乱を畏れているのか…ウラノスを討つ程の者が? 理解できないな」
「俺があんな事をしていなければ、こうならなかったのかもしれない」
「……余程ショックが大きくて、狂ってしまったか」
「…なんで俺はあんなことを。母さんに恨みがあった訳でもないのに、
あれより前の記憶が
全くないんだ。
普通に暮らしていただけなのに! 何でなんだ!」
ゼウスはやり場のない怒りと嘆きにもがいた。
俯いた瞳から涙がこぼれ、地を濡らす。
メティスが黙って、弱々しく映るゼウスを抱きしめた。
ゼウスはびっくりして涙を止めた。
「このまま逃げ回っても何れ対峙しなければならない日が来る。
それまでに御前は心を強くした方がいい。でなければ戦う前に負けてしまう。
大丈夫、私も居る」
「メティス…」
二人は吐息が掛かる距離まで近付き、そのまま吸い込まれるように唇を重ねた。
その甘さを求めるように何度も口接し、やがて濡れた肌を合わせ体温を感じ合った。
(「おかしい。それでは私が襲われた理由が見つからない。まだ何かある」)
いつの間にか閉じた瞼をゆっくり開けると、お互いが表情を見つめ合っていた。
「メティス…有難う」
「私も御前と同じ身。最後まで付き合う事にするよ」
「言われた通り、俺達だけではどうする事も出来ない。先に兄達を助けよう」
ゼウスは乾いた衣服を纏い、外の様子を窺いに出た。
どれだけの時間が経ったか、雲が晴れて日が差して来た。
居所がばれてしまったので、島を脱出しようと相談していると、
またしても天空から話し掛けられた。
「決意を固めたか。この先は苦しい道程になるだろう」
メティスも慌てて衣服を纏い、外へ出て来た。
ゼウスは躊躇いなく空を仰ぐ。
「俺達はオリュンポスに行く。この瞳で真実を確かめる。
結果クロノスを討つ事になっても」
「運命は連鎖する。そなたが天を討ち、新たな王となった時、
そなたが最初に授かる聡明且つ気丈剛毅な子が、父をも凌ぐ力を得て
そなたの地位を脅かす存在となろう。
天を支配したいなら充分気を付けるがいい」
「地位など望まない! 俺は狂った歯車を正すだけだ」
「世界は新たな波を求めている。飲み込まれぬよう用心する事だ」
二人は無言で力強く手を繋いだ。
「行こう。オリュンポスへ」
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