メティス

彼女はメティス。
小柄で、長い黒髪に青い瞳をした海神(ポントス)族の少女だ。
遠い東の海洋から巨人の襲撃を予知し、逃れて来たらしい。
彼女が言うには、此の島はまだ巨人族が支配していない地域らしく、
見張りや住人も存在せず、野放しの山羊のみが生息しているのだと言う。
他の地域と交流も少なく、街から船が行き来するなど聴いた事がないと言う。
ゼウスは流れ着き、クレタで過ごしてきた三年間を必死に訴え、
人が居た事を話したが一向に信じてもらえなかった。
証明しようとして手を強く引き、小屋迄連れて来たが、
そこには跡形も無く小屋の姿は消えていた。
呆然とする彼を余所に、メティスが辺りを見渡すと、何かを見つけたらしく、
ゆっくりと歩き出した。
「おい! こっちに山羊の死骸がある」
ゼウスもその場所へ向かう。
?! ゼウスは自分の瞳に映ったものから目を背けた。
神殿での母の最期の姿が過る。
忘れようとしていたのに…。思考がそれで支配されて行く。
山羊の骸は無惨に切り裂かれ、骨と皮だけになっていた。
「…これは…」
もう一度目にした時、体中の震えが止まらなかった。
山羊の首を飾っているもの。
それは数日前にゼウスが花を摘んで作った首飾りを、仲良くなった山羊にあげたもの。
こんな姿に…。
「獣でも住みついたのか? それにしては丁寧すぎる」
獣に食い荒らされたにしては肉の剥ぎ方が綺麗にとられていた。
まるで手先の器用な神族が捌いたような印象だ。
ゼウスは突然アマルティアの言った最後の夜の事を思い出した。
彼女の言葉。
「今日はゼウスが気に入った、この料理だよ」
少し不自然に思っていた。
ゼウスは吐気に襲われ、地に座り込んだ。
「俺が喰った…」
「え?」
「知らずに…あんなに仲良くしてたのに……俺が…」
ゼウスは嗚咽混じりで嘆いた。
「……」
メティスは暫くゼウスを見守った。
しかしなかなか治まらないゼウスに痺れをきらした。
「御前は今まで肉を喰った事がないのか?」
ゼウスは息を切らせながらメティスを見上げた。
「ある」
「ならその度にそうやって悲しんで来たのか?」
「……」
ゼウスは無言で頭を左右に大きく振った。
「では御前は幸せな生き方をして来たんだな」
「…何が言いたいんだ。俺がショックを受けた事が可笑しいのか」
平然と自分を見下ろす態度に怒りが込み上げ、顔を上げた。
同じ立場に立てば誰だってこうなると言わんばかりに。
「悲しむ事が悪いと行っているんじゃない。
けど、御前は見知らぬ家畜なら平気で食して、
愛着のある家畜なら食べた事を後悔するのか。どちらも同じ命だろう」
ゼウスは険しい表情をした。
「生きる為には何かの命を喰って長らえる事は当たり前だ。
だから糧となった命に感謝するのが礼儀なのではないのか?」
言葉が出なかった。
今までそんな考え方をした事がなく、当たり前の食事に感謝した事などなかった。
食事前に手を会わせるのは唯の挨拶程度のものだった。
しかも愛着のあるものを糧にするなど思いも付かなかった。
まだ心の整理が出来ない。
「そんなこと簡単に割り切れるものじゃない!
 失った命を目の当たりにして嘆かない方が可笑しいだろ!」
「…御前を数年間養育した者はその時何も言わなかったのか?」
気が立つゼウスを宥めるように静かな口調で問いかける。
躊躇いながらも、あの夜の事を思い出した。

《 今日はゼウスが気に入った、この料理だよ。感謝して食べな 》

「……言ってた。感謝して食べるんだよって…」
「ならばそのおかげで自分が保てているのだから、その命を大事にする事だ」
「アマルティアはそれを俺に教えようとしたのか…」
「真意は判らないが、御前がこの現実を受け止めねばならないのは事実だ。
確かに残酷な教え方ではあるがな。
御前の言う通りなら、当の本人が存在しないのは解せないけれど」
メティスは異質な空気を感じ取り、周囲を警戒し出した。
「ゼウス、すまない。もう追っ手が来てしまったようだ」
メティスは腰に身に付けたナイフを 抜き、ゼウスを庇うように立ち、気配を探る。
彼女を追って、巨人族が襲撃にきたのだ。
「ようやく見つけたぞ女……」
巨人はメティスの傍らにゼウスの姿を見つけた。
視線に気付き、無防備なゼウスを逃がそうとした。
「ゼウス! 走って逃げろ」
しかしこの一言で相手に重大な情報を流す事になった。
巨人はゼウスの姿をまじまじと見て、どことなく彼に似ていたことに納得した。
「ゼウスか……長年こんな所に潜んでいたんだな。好都合だ、まとめて屠ってやる!」
「俺はともかく、どうしてこの子を父さんが狙っているんだ」
「俺達は指示通り、邪魔になる者を排除するだけだ」
「支配権を持ちながら何故海神族を目の敵にする!」
ゼウスはゆっくり立ち上がり、メティスと並んだ。
広大な海洋に住む一族・海神族。
未来を予知できる長老のネレウスさえ巨人族の襲撃を察知し、メティスを逃がしたが、
何の目的かまでは判らずにいた。
分かっている事は唯一つ。
狙われているのはメティスのみ。
彼女は泳ぎ続け、いつの間にか疲れ果ててクレタへ流れ着いた。
「海神族を滅するのが目的ではない。その娘が邪魔なのだ」
「ネレウスが私だけを逃がしたのはその為か」
「女一人に何を恐れる!」
「我々の知るところではない。大人しく消え行け!」
巨体がゼウスに襲いかかるが、対抗する術を持たない彼の体はその場に留まっていた。
「ゼウス!」
メティスが庇おうと前に出ると、轟音とともに天空から一筋の雷撃が落ち、
巨人を打ち倒した。
黒く焼けこげた巨人からは煙が立ち、襲いかかろうとした姿のまま倒れた。
二人は何が起きたか判らず、咄嗟に眼を隠した腕を、恐る恐る外した。
確認しようとメティスが近付くと、巨人は最期の言葉を発した。
「御前達が何処へ逃げようと、次ぎなる刺客が訪れるだろう。
足掻いてもその運命からは逃れ…られな、い…」
巨人は動かなくなった。
天は落雷をきっかけに、暗雲を呼び寄せた。
「御前はクロノスの息子なのか」
「そうだよ」
「何故狙われている」
「…父さんは、俺が刺したと思ってるんだ」
「誰を」
「母さんを」
「……」


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