クロノス

「今日は街を視察するから、帰りが遅くなるけど心配しないでくれ」
「どうぞお気を付けて」
クロノスは妻、レアを片手で引き寄せて口接けを交わした。
毎日繰り返される儀式のような行為に未だ慣れなず、
黙って傍観していた幼き息子・ゼウスは羞恥に駆られ、回廊へ飛び出した。
まるでそこが二人きりの世界であるかの様に、あの時間だけは
誰にも邪魔できなかった。


最近各地で飢饉が起こっているという情報を元に、
オリュンポスの郊外を視察していたクロノスに一報が入る。
兵士が慌ててクロノスに伝達した。
「クロノス様!! 城の使者が此れをクロノス様にと…。
ウラノス様からだそうです」
兵士の手には一枚の紙切れがあった。
忙しいのに何事かと苛ついた様子で奪い取るように紙切れを手にし、
中を開いた。
クロノスはゾッとした。紙には真っ赤な血文字で”First Rea”と書かれていたのだ。
そして瞬時に頭を過ったのは、最愛の妻レアの姿であった。
「父上、まさか」
怒りに打ち振るえ、紙切れを握り潰した。
「今日の視察は中止だ!! 神殿へ戻るぞ!!」
クロノスは一心不乱に神殿へ、妻の元へ急いだ。

神殿の回廊を過ぎ、自室へ辿り着くと中から給仕が
怯えながら後退り、部屋から出て来た。
ぶつかりそうになり、両手で給仕の肩を止めた。
「どうしたんだ?」
「クロノス様!! レア様が!!」
クロノスは恐る恐る中を覗く。
その光景を見て自我を失いそうになった。
腹や首を切り裂かれ、無惨にも横たわる妻の姿。
まるでこちらを睨んでいるかの様な視線は、
いつもの優しいものとは同一視出来なかった。
部屋中に返り血が飛び散り、裂かれた真っ白いカーテンも深紅に染まっていた。
そして、それ以上に衝撃を受けたのが、直ぐ横に凶器を握りしめ、
体中に返り血を浴びた

ゼウスの姿であった。

「父さん」
ゼウスがゆっくりと振り返る。
「ゼウス、御前!!」
クロノスの怒りは頂点に達した。
ガランッ! ゼウスは凶器を床に落とし、首を横に何度も振った。
「違う!! 僕じゃない」
しかしゼウスの叫びはクロノスには届かない。
クロノスは我を失い、ゼウスに襲い掛かる。
床に倒れ込んだ小さな首を力一杯絞めた。
「お前以外に誰が殺れる!!」
一層力の込められる手を解こうともがいていると、床を這う手が
凶器の柄に当たった。
夢中で手に取り、クロノスに向けて振り下ろした。
刃先はクロノスの左眼を貫いた。
「ぐわっっっ!!」
クロノスは手を解き、背中を反り上げ、両手で眼を抑えた。
「ひっ! 誰かぁぁー!!」
給仕は状況に堪え切れず、助けを求めた。
『げほっ、ごほっ! はあ、はあ。ああ、わあああっ!?』
ゼウスは我に返り、父を刺した事の恐ろしさのあまり、部屋を飛び出した。
「許さん。許さんぞゼウス!!
レアの痛み、そして俺の苦しみと怒りを思い知るが良い」
怒りのあまり、クロノスは半狂乱になっていた。
背後で気配がしたので振り返ると、笑みを浮かべたウラノスがいた。
「俺からの贈り物はどうだ?」
そう言って静かに去っていった。
今の心境だと殴り掛かってもおかしくない程だが、本能的に身動きが出来なかった。
父王が去ったのを確認すると、レアを抱きかかえガイアの庭園へ急いだ。
不死の身とは言え、最愛の妻のこんな姿を見ていたくない。
神族で大地を司る母神とも言うべきガイアの力を借りようと
庭園に妻を横たわせた。

「ガイアよ尊き力を御貸しください。妻を、レアをお救い下さい!! 」
クロノスが祈るとレアは光の粒子に包まれ、傷が癒えてゆく。

一族の母なるガイアの姿は、父王ウラノスを除いては誰も目にした事がない。
唯一対話できる場所は広大な此のガイアの庭園だ。三方を神殿で囲まれ、
奥には更に広大な海洋が地の涯まで続いている。
「クロノスよ此度の出来事、兄弟の失踪・レアの事も全てウラノスの企み。
父王を討つ覚悟があるなら再び此処へ来なさい」
ガイアの声はそう告げて消えた。
クロノスは呆然としたままレアを抱き上げ、一礼してから部屋へ戻った。


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