アマルティア
どれだけの距離を歩いたのだろうか。
ゼウスはオリュンポスを出てから数ヶ月歩き通しだ。
宛も無く唯々地に沿って前へと進むが、自分自身が何処へ辿り着こうとしているのか判らない。
あの時の光景が過る。
僕は何をしていたんだ…。
記憶に残っているのは、紅く染まった部屋と、母の無惨な姿、
そして、父の形相。
それ自体に恐怖は感じなかった。
時々母と普通に話しをしているだけで、嫉妬に駆られる父。
ゼウスは優越感を味わっていたのかもしれない…
何故か薄く笑いが込み上げる。
オリーブの木々に囲まれた岩場に腰を下ろす。
背後から真っ直ぐな影が伸びて来たので、後ろを振り返ると、
小さな老婆がそこに立っていた。
「…」
「あんた、どこから来なさった? この辺りじゃ見慣れんけど」
老婆の隣には一匹の牝山羊が
いた。
「どっからか流されたんか?」
その言葉で初めて気が付いた。髪や衣服は濡れ、砂利が足に纏わり付いていた。
「此処は…」
「クレタ島じゃ」
老婆は鳴いている山羊を撫でながら言った。
「うちで休んで行きなさい。そのままじゃ風邪引くよ」
老婆と山羊はゆっくり進み、山手の小屋へと歩いて行く。
ゼウスもその後を静かに付いて行った。
小屋の周囲には何十匹と山羊が生息している。
「これ全部おばあさんが飼ってるの?」
「いいや、共に此の地で暮らしているだけじゃ」
小屋の中へ入るよう促されると、部屋の中心に並んだ木の椅子に腰掛ける。
衣服を乾かす間、小屋に在った代わりの布を身に付けた。
暫くして甘い香りが漂って来ると、老婆がテーブルにカップを二つ置いた。
差し出されたのは、温かいミルクだ。
「此処に住む山羊達に分けてもらったミルクじゃ」
ゆっくりと椅子に腰を下ろした老婆は、
飲む前に手を合わせた。
ゼウスも何となく真似をした。
此処では人間と家畜ではなく、人間と山羊が同じ立場に立って、
お互いを支え合って生きているんだ。その関係に優劣は決して存在しない。
彼の居た所とは違う、別な世界だ。
権力争いも無い、略奪も無い、血腥いものが何一つ感じられない。
裕福では在ったが、あの良い知れぬ重圧に満ちた空気から解放されたように感じる。
此処が目指していた場所なのか…。
小屋の窓から望む草原を見て、いつしか涙が溢れていた。
老婆は無言で席を立ち、ゼウスを抱きしめてくれた。
彼女の名はアマルティア。
クレタ島で何十年も暮らしており、身寄りも無くずっと一人で生きている。
いや、山羊達と共に。
時々大陸の街の人が気に掛けてくれて、食料を運んで来てくれるらしい。
そのお返しに山羊の乳から作ったチーズやミルクを贈っているそうだ。
彼が何処から来たのか経緯を話したが、此処から追い払うつもりは無く、
気の済む迄居れば良いと言ってくれた。
「アマルティア。今日は山羊達少なくない?」
少しの群れの変化に気付いたゼウスに、アマルティアは優しく微笑みかけた。
「生きていれば皆やがて死を迎える。自然界では産まれる命もあれば、
失われる命もある。だから仕方がない事なんだよ」
「どうなるの?」
「二度と心を通わす事が出来ない。永遠の眠りにつくのさ」
神族であるゼウスにとってはまだ理解できなかった。
聞き終わると外へ飛び出し、最近仲良くなった一匹の山羊を見つけ出すと、
駆け回ったり、白い花を摘んで首飾りを作っては山羊に掛けたりして遊んでいた。
食事時も忘れて遊びに夢中になると、
アマルティアが鍋の蓋を叩きならし、
教えてくれた。
そして彼は、此のクレタ島で三年程暮らした。
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